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Doer(一日一食でミニマリストで原始仏教徒)

Knowing is not enough; we must apply. Willing is not enough; we must do.

【感想】僕はなぜ小屋で暮らすようになったか

書評

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前置き

以前、小屋お披露目オフ会に参加された方から、寝太郎氏の新著『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか』(以下『僕小屋』)をプレゼントされました。

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と言っても、オフ会の時のおみやげではなく、後ほど宅配便にて別送して頂いた形です。

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『神なるオオカミ』という非常に面白い小説も同梱されていました。

いやはやありがとうございます。職業訓練校への通勤電車の中で読んでます。

感想

さて本題ですが、既に『僕小屋』の方は読了しているので、感想文を書いてみます。

『書評』ではなく『感想』

なぜかと言えば、そもそも『僕小屋』はタイトルからも察せられるように、『ただの自伝』だからです。Bライフの解説本だとか、そういった類のものではない。

ゆえに『論評』なんてしようがないし、必要もない。

「ふ~ん、そうなんや……」で本来終わりの話である。

しかし記事にしてしまったからには、何かしら書かねばならないので、ざっと感想を述べますと――

 

寝太郎氏って『自閉症』ですよね??

 

いきなりそこかい

正確には『高機能自閉症』、つまるところの『アスペルガー症候群』ですが、それを匂わせる記述がチラホラあります。

僕が病的なぐらいのメモ魔であり、何事に対しても計画的であり、そして一度決めたら機械的にやり通すのも、すべては自由への欲求から生まれたことだ。

僕は依然として、現実のコピーを心の中にそっくりそのまま持ち歩く能力を持ち続けており、記号に対する信頼も失っていなかった。したがって、教科書などは一度か二度読めばすぐに覚えてしまった。 

自分の中の最深部へ降りていったとき、そこに他人がいるか否か。そこに他人がいるという人は、安全地帯にも信頼できる他人が必要なのだと思う。僕の場合、そこには自分以外には誰もいない。だから、安全地帯もなるべく自己完結的なものであって欲しい。

この恥ずかしい秘密が誰かに漏れていやしないか、自分がニセモノであることが些細な言動や表情から他人に看取されてしまうのではないかと怯え、震えていた。自分はますます自閉的になっていった。

まずは文章全体から漂う『自閉感』というか、『一人で世界が完結してる感』(自己完結)ですよね。自分もADHDなので、発達障害ブログをしばしば読む機会があるんですが、一部ブロガーの文章に似た匂いを感じるんです。

あとは『突出した記憶能力の高さ』も、高機能自閉症の典型的な特性の一つです。さすがに『サヴァン症候群』とまでは言い過ぎにせよ、そういった優れた記憶力を発揮する方は珍しくないのだとか。

 ま、所詮は素人判断なので真相は不明ですし、仮にそうだったとして「だから何?」って話ですけど。

そもそも当人にしてみれば、その手のラベリングは大した意味を持たないのかもしれません。

ただ、僕個人に限って言えば、「病気」と言ってしまうのは甘えや諦めであると感じるし、どこか悔しさもある。 

寝太郎氏のパーソナリティについては、自閉症以外にも『分裂なんちゃら』とか色々混ざってるのかもしれませんが、自閉症だけなら『発達障害』なので、『病気』ではないです。

ただ単に、平均的な人とは『種族』が異なるだけ。まぁ少数派であるがゆえの苦労はするんですが。

……というかこの記事、『寝太郎氏は自閉症である』という前提で話を進めちゃってますが、あくまで自分の勝手な判断なので、間違ってたらごめんなさい(土下座

(自分の中ではほぼ確定事項として固まりつつありますが)

一方、現代日本の教育課程において、暗記能力と机上の記号処理能力がいかに重要視されているかは周知のとおりである。僕は自分の能力が、自分の承認願望を満足させたり、この社会の中で自分の人生を推し進めるためにいかに好都合であるのかを知るに至った。

 僕は恋愛経験も少ない方ではなかったし、その中で当然、相手側から別れを告げられたこともあった。

むしろ僕は、これまで本当の貧乏というものを経験したことがないということに対して、つまり、まさに明日を生きるための力強い行動をしたことがなかったという点において、多少の引け目を感じているほどだった。

おそらく、この生きにくさは他人や社会がどう変わったとしても根本的には解決されない。社会が理想的な姿になれば解決されるであろう生きにくさを「社会的生きにくさ」と呼ぶとすれば、僕が感じているのは「私的生きにくさ」である。

 

 あぁ、なんて羨ましい……。

 

当人からすれば『羨ましい』なんて表現は心外かもしれませんが、こちとら『私的生きにくさ』に至る以前に、まだ『社会的生きにくさ』で四苦八苦してる段階ですので……。

古代ギリシャ哲学の例を見ても思うんですが、内的世界で悩めるというのは、『暇』『ゆとり』 を持て余した者の特権ではないかと思うのですよ。

それ以前に『仕事がダルい』とか『老後が不安』とか、その程度の段階で苦労してる自分には、目の前のライフハックに忙しくてそれどころではありません。

もし仮に、自分がそこそこ楽に生きられるようになって(週3労働etc)、暇を持て余すようになったら、フェイズシフトして今度は『私的生きにくさ』が表面化するんでしょうけどね。

もちろん寝太郎氏とて『社会的生きにくさ』はそれなりにあるでしょうし、苦労が多かったことにも疑いはありませんが、それでも日本型教育においては相性抜群だったし、恋愛経験もあるし、実家は裕福だし、ただの自伝を本にして出版するだけの小狡さ(褒め言葉)も備えていますし、何だかんだでたくましく、恵まれているなと思ってしまうのです。

まぁ一方で、ADHDの自分の方が恵まれている部分もあるでしょうし、所詮は『隣の芝生は~』ってことなんでしょうが。

治る治らない、忘れる忘れないではなく、最も明晰で澄み切った思考において納得できるか否かという問題である。そこにしか救いはない。なんとなれば、死の問題そのものが、最も明晰で澄み切った思考において発生したものだからである。

こんなふうに、「なぜ一人が好きなのか」という問い一つ取っても、自分の答えは分裂している。なぜなら、僕自身が分裂しているからだ。一方は死の孤独そのものから、もう一方は生きることに関する逃避や羞恥心から生ずるもので、そしてその両方が相強め合って、気がついたら雑木林の中で小屋暮らしをしていた。

自分の小屋は、そんな巨大な自我の構築の具現化である。借り物ではだめだった。誰かのお下がりでもだめだった。手作りの小屋は、僕の自我そのものなのだ。

『僕小屋』を読むまで、なぜ寝太郎氏がBライフという突飛な生活スタイルへと移行したのか、本当のところは分かっていませんでした。

単に田舎暮らしに憧れていたのか、経済的な理由なのか、ひっそりと暮らすのが好きなのか……。

自分にとっては『生活費を浮かすための手段』『数あるライフハックの一つ』という位置づけでしたが、寝太郎氏にとっては『生』と『死』の両人格にとっての『折り合い』だったのですね。

もしくは言い換えるなら、両人格の『並存』『調和』であり、ひいては『自我の具現化』『自己表現』でもあるわけです。

まぁ後者の二つについては、自分含め、多くのBライファーにも当てはまることだとは思いますが、『社会不適合者にとっての救い』という観点においても、自分と寝太郎氏のBライフは全く別物のように見えて、実は通じる部分もあるのかなと思えたり。

総括

『書評』ではなく『感想』であるがゆえ、グダグダとまとまりのない文章になりましたが、大体こんなところです。

でもま、何というか。

寝太郎氏も言ってますが、得するのは『普通の人』『多数派』『平均値』であって、我々のような『異端者』『少数派』『極値』は損する世の中にできてるわけですよ。

自分と寝太郎氏は全く方向性が違いますし、これから特に接点もないでしょうが、『社会不適合であるがゆえにBライフに行きついた』という点だけは共通してますので――

 

これからもお互い生きやすいように、ぼちぼちやっていけるといいですね。 

 (それと自分がBライフを知れたのは寝太郎さんのおかげなので、その点もありがとうございました)

 

以上

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