読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Doer(一日一食でミニマリストで原始仏教徒)

Knowing is not enough; we must apply. Willing is not enough; we must do.

『言刃』を抜かないということ

f:id:nasunouka:20150630181144j:plain

『言刃(ことば)』とは何か?

文字通り、人の心を傷つける言葉のことです。

言葉は本来、意志をスムーズに伝達するためのツールですが、ひとたび用法を誤れば、人の心を鋭くえぐり、一生モノの傷(トラウマ)を残す刃となりかねません。

例えば、こんな台詞があります。

f:id:nasunouka:20150701000744j:plain

「言葉は心に刺さりよるけん 殴られるより痛かね」

人は物理的な傷を負っても、数日、長くても数年経てば、ほとんどの場合回復します。

ですが精神的な傷というのは、肉体の怪我のように簡単には治癒しないことが多く、一生苦しみを引きずったまま、というケースも珍しくありません。

そして用法を誤った『言刃』というのは、実 に た や す く 、い と も 容 易 に 、人の心を殺すことができるのです。

さて、中にはこう思われた方がいるかもしれません。

「肉体の怪我は治るといっても、刃物で斬られれば死ぬじゃないか、深刻な障害を抱えるケースだってあるじゃないか」と。

f:id:nasunouka:20150701001333j:plain

確かに人はナイフ一本で簡単に死にますし、逆に言刃ではダメージを負うことはあっても、なかなか死ぬまでには至らないですね。

では仮に、言刃よりナイフの方が危険だとしても、自分が言刃を警戒する理由は他にもあります。

ナイフと違って、言刃を振るうことには制約がないのです。

現代はナイフを持ち歩いていたら警察に捕まる時代ですし、実際に他人を傷つけたらすぐに発覚するので、おいそれと罪を犯そうという気にはなりません。

しかし言刃は、その気になればいつでも抜刀して斬りつけることができます。

現に人は、『バカ』『クズ』『死ね』などといった汚い言葉が大好きです。ほとんどそれだけで生きているような人もいます。

彼らはちょっと気に入らない出来事が起きるたび、まるでクシャミでもするかのようにたやすく言刃を抜き放ちます。

ですがその手軽さに反して、斬られた側が負うダメージは、時に想像以上に根深い。

近年はパワハラやセクハラなど、罪に問われる場面も増えてはきたものの、基本的に言刃の暴力というのは振るっても発覚しにくいし、明確な刑罰にも繋がりにくい。

むしろそれ以前に、「人の成長に言刃は必要」とか「言刃を使える人はカッコイイ」などと、根本レベルで思い違いをしている人も多いので始末に負えません。

制約らしい制約と言えば、その人の『良心』ぐらいしかないのが現実かと思います。

その観点から言えば、現代人の多くは無意識のうちに『銃刀法違反』を犯していると言えますね。

つまり世の中犯罪者だらけです。

ですが同時に、『自分が悪であると自覚していない悪人』もまた少なからず、それこそがこの問題の根本的な病根であるのかもしれません。

鞘に収める

f:id:nasunouka:20150630175957j:plain

さて、そうは言っても実際のところ、言刃を振るわずに生きていくことなど可能なのでしょうか?

まず理想としては、振るう以前に刀を捨ててしまうこと。これが一番望ましい。

しかし人間は煩悩の塊であるため、そこまでするのはお釈迦様レベルでないと難しく、現実的でない。

ならば鞘に収めたまま、抜かない努力をすれば良い。

突発的な感情や衝動に駆られたとしても、不用意にそれを口に出さないことです。自分が発しようとしている言葉を一度立ち止まって観察することで、ある程度冷静さを取り戻すことができます。

しかし、実際には堪えきれないこともあるし、どうしても発言しなければならない場というのも生きていく上では多々あります。そんな時はどうすれば良いでしょうか?

『愛語』

仏教には『愛語』という教えがあります。

簡単に言えば、相手の立場になって、相手を思いやる言葉遣いをすることです。

具体的には、過激な表現を使わない、婉曲を意識する、オブラートに包む、そういった諸々のテクニックが当てはまるかもしれません。

言刃を抜くことを我慢できない場合も、そうしたマイルドな表現を意識することで、ちゃんと伝えるべき内容を伝えつつ、相手を傷つけない『言葉』でのやり取りができます。

いくつか例を挙げましょう。

Sample1『髪型をけなす』

take1

f:id:nasunouka:20150701020846p:plain

f:id:nasunouka:20150701021851p:plain

愛語フィルター展開

「アトムみてーな頭してんじゃねーどっ!」

        ↓

「その髪型、ちょっと古いかな……

        ↓

「クラシックだね!」

take2

f:id:nasunouka:20150701020906p:plain 

f:id:nasunouka:20150701021916p:plain

Sample2『妹を褒める』

take1

f:id:nasunouka:20150630232206p:plain

f:id:nasunouka:20150630232440p:plain

愛語フィルター展開

「泣きわめくのがうまかったな。お前の妹はよ…」

        ↓

「お前の妹はいい声してたなァ…」

        ↓

「妹さんは声が綺麗ですね!」

take2

f:id:nasunouka:20150630233847p:plain

f:id:nasunouka:20150630233132p:plain

Sample3『赤ちゃんを評価する』

母親「どうですか? この子かわいいでしょう?」 

自分(う~ん……正直この子、出来の悪いサルみたいで可愛くないんだよなぁ……)

愛語フィルター展開

「サルみたいで不細工ですね」

        ↓

「お猿さんみたいな顔してますね」

        ↓

「赤みがかった顔が特徴的ですね」

 

同じ主旨の内容を伝えるにしても、チョイスする単語を吟味したり、意味をストレートに伝えず方向性を少し逸らしたりと、相手に配慮したやり方というのはいくらでもあります。

何でもかんでも、ただ直球で相手に伝えれば良いというものではないのです。

かつての自分がまさに、直球で伝えることだけが正義と信じ、言葉の吟味を怠けていた、救いようのない悪人でした。

当時は、婉曲表現だとか、ストレートに言葉を伝えないやり方がまどろっこしく、気持ち悪いと思っていました。それどころか、そういった輩は裏で何を考えているか分からないから、信用できないと思っていました。

でも違ったんですね。

もちろん内容を捻じ曲げすぎて、嘘になってしまうのは問題ですが、本来ああいったテクニックとは、伝えるべきことを伝えつつも相手を傷つけないための対人マナーだったのだと、20台後半にしてようやく気付くことができました。

自分は今でも、気付かぬうちに言刃を振るっていることがありますが、それでも直球に伝えることが正義だと信じ、散々他人様を傷つけてきた昔に比べれば、大分マシになった方だと思います。

あとがき

自分は教育の専門家でないので分かりませんが、たぶん現代の子供って、『相手を傷つけない言葉遣い』とか、そんなことは普通に生活してたら教わる機会がないですよね。

現代に限らず、ずっと昔からそうなんでしょうが、『正確で』『論理的で』『的確な』、所謂IQ的な言語能力は散々鍛えられますが、『思いやり』とかそういった観点からの、EQ的な言語能力は放ったらかしのように思います。

例えば危険な現場とか、軍隊とか、そういう特殊な場であれば、罵声などの言刃が意味を持つのかもしれませんが、ほとんどの場において『抜いてはいけない刀』だと信じています。

広告を非表示にする