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Doer(一日一食でミニマリストで原始仏教徒)

Knowing is not enough; we must apply. Willing is not enough; we must do.

かつて21日間断食した話 ー後半ー

健康

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前回:『かつて21日間断食した話 -前半-』



8日目:


ドライ断食期間終了。
遂にやり遂げた。浅い眠りから覚めると、7日前の開始時刻をようやく過ぎ去っている。
もはや悪あがきの仮眠で時間を刻む必要もない。早くジュースが飲みたい。

 


だが最後の試練が待ち受けている。この疲弊しきった身体で、スーパーまでジュースを買出しに行かなければならない。

まずはその前に水道の水で喉を潤す。うん、うまい。
断食後のおかゆほどではないが体にしみる。わずかばかり体力を回復させ自転車に乗る。

やはりペダルを漕ぐ足は重い。水分だけでは体力の根本的回復にはならない。足の力でなく体重を押しこむようにして漕がざるを得ない。集中を切らしたら転倒事故を起こしそうなので、一漕ぎ一漕ぎを意識しながらヴィパッサナー瞑想状態で進む。ゆるい坂道すら上る力がないので、俯いて体重を預けるようにしながら手で押す。

ようやくジュースを手にしたときには、家に帰るまで待てず、途中の公園でがぶ飲みしてしまった。本来なら水で薄めたジュースを飲み、徐々に濃度を増やしていくはずだったが、そんなぬるいことは言っていられなかった。

9~20日目:

これまでの過酷さに比べたらどうということはない。ジュースの糖質が補給できるだけでも大分楽になる。たんぱく質は補充できないため力が入らないのは同じだが、何かしらのインプットがあるとここまで違うのか。
それに飲み物で胃を満たすだけでも、一時的にだが満腹感を得ることができる。ぺちゃんこのホースのような腸管に液体が通るため、あのキリキリとした痛みも緩和される。

あとはただ眠りながら、残りの14日間が過ぎ去るのを待つだけだ。ドライ7日間明けのリハビリ期間と思えばいい。
ここまで来ると腹が空っぽなのが当たり前になり、空腹感というより物足りなさと退屈さを感じる程度。
だが糖質の補給により体調も快方に向かったため、再びゲームで時間を潰せるようになった。
それでも残り14日間という時間が、おそろしく単調で退屈なものであることに変わりはないのだが。

21日目:

この21日間断食は『21日間プロセス』と呼ばれており、実際にこの期間を経てリキッダリアンやブレサリアンのような不食者へとステップアップした方々もいる。
現に自分も、ここまで耐えられたのなら後はジュースと豆乳だけで生きていけるような気がした。
腹には全く固形物が入っていないため、常にペチャンコ状態だが、それがデフォルトと化しているのだ。
今はまだたんぱく質の欠乏によりフラフラしている段階だが、いずれ腸内に窒素固定菌が定着してくれれば、空気中の窒素からそれらも合成できるようになる。栄養面の問題は時間さえかければどうとでもなるだろう。
だが、空腹には耐えられたとしても、これまでのような退屈が永遠に続くとしたらどうだろうか? ゲームなどの娯楽で暇を潰せればよいとか、そういう次元の問題ではない。

空腹とはすなわち、肉体的な『退屈』なのだ。

娯楽は精神的な退屈をまぎらわしてくれるが、肉体的な退屈という意味では、食事ほど適したものはない。
まず食物の消化が始まると、全身の内臓がフル稼働して疲れる。そしてこれ以上は消化しきれないというオーバーワークのサインが、満腹感となって現れる。
逆に言えば、空腹であるということは、内臓が消化を終えてしまい手持ち無沙汰になったということで、やることがなくて退屈している状態なのだ。
食事は確かに体を疲労させるが、そのおかげで退屈を感じずに済む。疲れるからこそ、何時間も睡眠して時間を潰すことができる。
やることがある人はいいが、常人が不食になれたとしても、かえって時間をもてあまし辛いだけではないだろうか?

人は多くの場合、栄養が必要だから食べるのではなく、退屈で仕方ないから食べるのだ。
食べすぎや肥満で悩んでいる人は、まさにその典型である。
栄養面だけで考えるなら、とっくに必要量など満たしている。だが食事という行為自体が楽しく、そこにストレス解消を見出しているから食べてしまう。
食糧事情の豊かな日本では、なおさらその傾向は強いだろう。栄養失調から回復するために食べるなど、もはや戦時中の昔話でしかない。
食事をすれば、準備から実際の食事行為、後片付け、消化中の疲労感まで、時間潰しの効果は絶大である。しかも多くの人は一日に三回もそんなことをしている。
無理からぬことだとは思うが、彼らはそれだけ人生が退屈であり、時間を持て余しているのだろう。古代ローマ貴族が、食べ物を食べては嘔吐し、空になった胃でまた食べるといったことを繰り返しては、食事行為自体を楽しんでいたのに似ている。極端な例ではあるが、要するにそういうことだろう。

自分は一日一食までは到達したが、その一食すらも捨て去るとなると、その限りない退屈に耐えられそうにない。
退屈の解消以外にも、自分は食事という行為に楽しみを求め、ストレス解消のはけ口にしてしまっている。それすらも失ったら、正気を保っていられる自信がない。食事を上書きして有り余るほどの行為を見つけられていない。若い頃なら寝食を忘れてゲームすることもできたが、所詮娯楽などはいつか飽きが来る。
余った時間で己が一生をささげたいと思うほどの、『ライフワーク』が必要なのだ。
そんなライフワークがあるとすれば、『救世』『世界平和』など、常人には想像も付かない強烈な『使命感』をもたらすものが必要ではないだろうか? あらゆるエネルギーの中でも、使命のエネルギーが最も強力であると言われている。

肉体的な退屈感を克服するには、そのようなライフワークを設定し、常に行動し続けていることが必要なのだと思う。

21日間の長い長い挑戦が終わりを告げようとしている。
時計の針が過ぎ去ったら、明日は何をして過ごそうか? やはりおかゆの美味しさに舌鼓を打ってみようか? きっと泣くほどうまいだろうな。

自分は結局不食者にはなれなかった。今現在、このブロマガを書いている自分を見ていただければ、そのことは明らかである。



あとがき

この21日間プロセスで、自分は結局何を得ただろうか?

以前より更に食物を必要としない体質になったのは確かだ。ついでに『2、3日飲まず食わずでも人間は死なない』という謎の自信も手に入れた。現に夏場の7日間、クーラーなしの扇風機だけの部屋で、水なしでも死んでないのである。(今思えば秋にするべきだった)
食物への感謝、というのも挙げられるが、それは正直、断食後しばらくの間続いただけで、普通に食うようになってからは忘れてしまった。人間は実に身勝手で、喉元過ぎれば熱さ忘れる生き物だと、自分でも恥じざるを得ない。ここは今後の人生を通じての改善が必要だ。

一番大きい変化を挙げるとするなら、今まで必要だと思い込んでいた食事という行為が、『オプションの一つ』にまで成り下がったことだろう。
相応の準備期間と意志力は必要だが、食事は必ずしも『必要』なものではない。食いたくなければ別に食わなくてもいいのである。現にそうして食事という行為を断捨った人々がいる。
シャンプー記事の時に述べたように、多くの人はそれを当たり前と思い込み、『使う』『使わない』の選択肢すら存在しない思考停止状態に陥っているが、実は食事にも同じことが言えるだろう。

自分は結局食べ続ける道を選んだが、食べない選択肢をも認識した上での選択である。オプションでそうしているだけ……というのはさすがに言いすぎだが、その気になれば食わなくてもある程度生きていけるだろう。

その差は大きい。
変わり者がこれから我を通して生きていくには、このぐらいのタフさは必要なのだ。

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